底辺な人生、そんなもん。

思ったことをそのまま言葉にして綴ってます。

自死したら地獄?

私は去年の誕生日に首を吊った。失敗に終わったけど、そこからもずっとずっと死にたいと思ってる。毎日のように、日課のように思う。

生きてたらいつか幸せになれるよ、自分次第だよ、いつか、いつか、いつか。

それを言われ続けてもう何年経つの?いつまでだって幸せと思えなかった。いつだって自分が大嫌いで苦しくて闇に溺れたように生きて。いつかいつかって言われすぎてもう信じられなくなった。他人は簡単に言ってくれる。ひねくれてるのかもしれないけど、いつもそう思う私がいる。

自分の未来を、見られなくなった。信じられなくなった。自分のことはもちろん、周りのことも。だから死のうと思った、もう本当に自分は生きてる価値も意味もない、苦しいだけの世界に生きる意味が分からない、と思って。死だけが私を幸せにしてくれると思った。

実際に今もそう思ってる。し、やっぱり死のうかな、と思ったりする。

でもよく言うよね、「自殺したら地獄にいく」って。

私はなんか、それが怖い、怖くてなかなか死ねない。地獄は嫌だもの、楽になりたくて死ぬのに。なんで自殺したら地獄なの?って不思議に思うしちょっとイライラする。

どれだけ生きてるこの世が苦しくて苦しくて自分で死ぬことを選んでると思うの?って、神様か仏様かわからないけど天に思う。そんな簡単に人は自死できるわけない、そんな覚悟きっとない。それでも死ぬほど苦しんできたのに、もう生きられないほど溺れてしまったのに。なんでその上地獄に向かわされてしまうの?悪いことしたの?そんなに自殺行為は悪いことなの?って。

本当にこの世は不平等だ。神さま仏さまも不平等だ。救ってなんてくれやしないじゃない。

死んでないからわからないけど、お願いだから自分で命を絶ってしまった人たちが地獄なんかに行っていませんようにと思う。


私も、できたら無になれたらいいなと願って。

人それぞれの誕生日

誕生日って、みんなにとってはどんな日なんだろう。いろんな意味で特別なんだろうな。

私はいつから1年で1番大嫌いな日になってしまったっけな。

小さい頃は自分の誕生日が大好きだった。自分が特別になれる日。優しくしてもらえる日。笑顔を向けてもらえる日。毎日誕生日だったらいいのにってくらい大好きだった、どんなに幸せだろうって思ってた。

それがいつの間にか真逆の日になった。

特別ではある。大嫌いという意味で。本当に、大嫌い。自分が生まれてしまったことを謝る日、後悔する日。自分に罪悪感を感じる日。いつからそうなったかはもう覚えてない。生きることが本気で嫌になった、自分のことが本当に嫌いになったときからだったと思う。自分の誕生日が近づくと死にたくて死にたくて仕方なくなる。去年は自殺行為をした。失敗に終わったけれど。未だに、あの日死ねていたら良かったと思う。それが私にとってどんなに幸せだったろうと思う。

最近は誕生日が近づいてるおかげで精神面が狂い始めてる。また、自分を殺ってしまいそう。狂ってるんだ、私のメンタルが。もうコントロールなんかできない。頭が勝手に自分を殺してるんだもの。もうムリなんだよ。

自分の誕生日を幸せに思えてた頃が懐かしい。どうしてあんなに無邪気に私を特別に思えてたんだろう。恥ずかしいようでちょっと羨ましい。もうあの頃の私はいないんだな。

母親の幸せが子の幸せ?

私は生まれてこの方「生きてて幸せ」だなんて思ったことなんか1度もない。そんなこと思えない。幸せなんてわかってすらない。感じ取る機能がきっと私には欠けてるんだろうな。

私の母親は、「母親が幸せじゃないと子も幸せになれない」といつも言う。だから離婚して再婚したのだと。それはいいと思う。母親には母親の人生があるし、同じ人間なんだし。私も息苦しかったし。私の「死にたい」発言で決意したみたいだし。少しありがたかった。

母親が再婚してから確かに変わった。母親が。いつもピリピリしてたのに、おおらかな感じになった、笑うことも増えた。なによりだ。
でも、私は?私は何も変わってない。むしろ精神面が削り取られていくようになった気がする。新しい旦那と名前を間違われ、言葉が厳しいくてキツいのは変わらずで。メンタルがキツいと相談すると、その言葉でより命の血が流れ出してく。しかも2対1。母の旦那は私の父親じゃないから。幼い頃から母の愛情を受け取る機能が鈍いのに、今もその状況で幸せと私は思えなかった、し思えない。
でもそれはあとはアンタのせいと言われる。アンタが幸せも気持ちも受け取らないからだろう、甘えてるんだろう、と。
確かにそれはある。でもそれも全部私のせいなんだなって。私が受け取れなくなった背景はきいてくれない、理解しようとしてくれない。

私は、親が私の気持ちを、人間性を理解しようしてくれるところから初めてやっと嬉しいって気持ちに気づける気がしてる。だって。私はいつまでの母の子だから。親に自分を気づいてもらえないのは苦しいし寂しい。いつまでも。私だけが置いていかれたような気がする。やっぱり独りなんだって、感じる。

母親は現在幸せそうだ。
なのに私は、どうしてこうも苦しいの。

猫の世界

私には愛猫がいる。「みん」という名前で、大切に大切に、箱入り娘として一緒に生活してる。もうこの子がいない世界は考えられないというくらい大切すぎる存在。

今日、家でみんと遊んでるときに窓の外に野良の黒猫が来た。しょっちゅう来る黒猫ではあった。勝手に「黒田」と名前をつけて家に来るたび可愛く見ている子。

その子が、ボロボロの体になってへたりこんでいた。きっと、野良猫同士のケンカをしたんだろうとは思う。それは野生の猫の世界では当然のようにあるものだから、わかってはいたけどボロボロになったその子をみた時はショックだった。怖くて、心配で、悲しくて、切なくて。

私の膝に座っている平和に生きるみんと一緒に黒田を見てた。見てるしか、できなかった。

家の中で、箱入り娘で自由は少ないけど平和に生きる愛猫と、外で自由は多けれど喧嘩しながら自分の力でボロボロになりながら生きる黒猫と。同じ猫で、同じ命なのに。

こんなにも違うんだって思い知らされた。

みんはきっと、病気か寿命でしか死なない。そして野生では生きていけない。お嬢様だもの。私たち人間に愛情を注がれて可愛がられて平和にのんびり毎日を生きてる。

けど、黒田みたいな野生で生きてる子は体張ってボロボロになりながら生きるんだって。喧嘩に負けてしまうこともあるんだって。怖かった。愛情をもらうことは知っているのかな。

突然ボロボロになってきた黒田をみて、なんて厳しい世界なんだろうって思った。弱肉強食、それが本当に存在して、その中で必死に生きてる子たちがたくさんいるんだって。

可愛がってた子が死ぬことは悲しい。

前にも違う「ぶふ」という名前をつけて呼んでた黒猫が突然遊びに来なくなった。喧嘩に負けて、天国に行ってしまった。

黒田もそれと同じ世界で今生きてる。野良猫とはいえ、猫好きからしたらどんな子の命だって助けたい。のに、愛猫がいるから、私の子を守るために野良猫には手を差し伸べられない。その子の命を負う責任がとれない。

私は命を天秤にかけてしまった、自然に。

そんな自分が情けないし悔しいし、なにより切なかった。黒田は生きてる、でも目の前でこんなボロボロになってるのに、動けないくらい弱ってるのに。見てるしかできなかった。

悔しいし悲しい。それが野生の猫の世界なんだとしても。

黒田の命の行方を思うと同時に、私は愛猫の命の行方を想った。せめてこの子だけは幸せにしたい、何がみんの幸せか聞いてあげられないけど、私なりに絶対幸せに命を守りたい。

自分の命なんかどうでもいいくせに、そんなことを強く思った1日だった。

このクソみたいな私の人生で、どこにチャンスが落ちてるか?

私は占いが昔っから大好き。

占いの本ってたくさんあって、小さい子向けのものもあったりする。小学生の頃はそれをひたすら見漁ってた記憶がある。笑

女の子らしいことだった気もするけどそれは大人になった今も変わらずで……。

私は「星ひとみ」さんという占い師が大好きなんですね、本当、今現在。テレビでもご活躍中で見る度に感動もの。当てすぎなんだもん。

その方の本を買って読んだりして、今日も本屋さんでまた違う本を見つけてちらちら読んでみた。

それで何が言いたいかって、どの本にも私は変わり者で自由人で海外に行った方がいいって書かれてるの。しかもしかも、星ひとみさんだけじゃなく他の人の本とか、周りの大人の方々にも本当によく言われるの。ちゃぴ(あだ名)は海外に行けって。

私行ったことないし、治安悪いとか日本より清潔感がないとか、まず言語が通じないとか不安ばかりだし、あんまいいイメージとか持ってないのにそんな簡単に行けるかって内心1人で悩んだりイラついたりしてたんだけど。

ふと、人生のチャンスってどこに落ちてるものかわからないのが現実だよなって。

私は今までの人生、本当に底辺というかどん底というか。クソみたいな人生を歩んできたからこれからの未来に賭けてるのね。笑

それがもしかすると海外にあるのなら…行ってみようかなとも思ったりする。結構覚悟いるんだけどさ。でも人生、全ては覚悟だよね。自分で道を切り開きたいなら。

私はいつも覚悟が足りないから中途半端なのかな。でもどん底みてきて、それでも生きてるこの命でこのまま死まで歩いていくのはちょっと悔しい気もするよね、私は負けず嫌いだし。

今は目標がなくてプラプラぷー太郎になってるからそれを目標にして生きてみようかな?

バイリンガルとか、カッコイイじゃん?

そんなちょっとした妄想でテンション上げたりして、気持ち高ぶらせて生きてこ。

でもホント、海外に出ていくの、アリ。


私の人生のチャンス、自分の手で拾わなきゃ。

まず見つけるところから、だね。

愛情を受け取る難しさ

今でも自分のネックにある問題。
幼少期に上手く母親からの愛情を感じられず孤独ばかりを感じて「独り」で生きたような思い。
私はそこからもう、人の愛情も、さらには飼っている愛猫からの愛情も受け入れることが出来なくなっている気がしている。というか、そうだと思う。
それはとっても悲しくて寂しくて、孤独で。自分で無意識のうちに拒否してしまっているのだろうことは自覚してきている。自分が悪いんだ、受け取れない私が。と思うことも多々ある。
でも、自分にかけられる愛情というものを素直に受け取れる人はそうやって育った人だと思う。愛情を感じることが当たり前で、愛されることが当たり前と感じられる人。否定じゃない、とても素敵なことだと思う。なんなら羨ましい限りだ。
でも、そうじゃない人だっている。私のように親との関係を上手く築けなかった人は、きっと愛情というものが不安定で信用に足らないものだって感じてしまう、私はそう。だって当たり前のようにずっとそばに温かくあるものだって思えないんだもの。
毎日毎日戦った孤独と向き合って、苦しくて捨てたくなったのに未だに捨てられないこの心をえぐりとる物は愛情が消えるその瞬間で。もう傷つきたくない、もうやめてほしい、解放されたい、のに独りじゃ生きられない、寂しい、怖い。そんな負のループを毎日頭で繰り返してる。
母親にいつも言われる。「他人からの愛情を受け取らないのはアンタ自身じゃない。」と。
そうかもしれない。けど私は愛情がそばにあることがもう怖くなってしまった。当たり前に信じられる人間にはなれなかった。素直に受け取る方法が、わからないまま大人になった。
マイナスなことが多い、苦しくなることが多い、何とかできるのは自分自身。わかっていてもわからないから難しい。
人間の育ち方、環境の違いでどうしても分かり合えないことがある。私はそれがもどかしくて悲しくて、私の心が今でも苦しい。
愛情を受け取りたくないわけじゃない。むしろ求めてもがいてるのはそういう「私たち」だと思うんだよ。

生きていくために必要な仕事と休み

生きていくためにはお金が必要だよね。

その収入を得るためにみんな「仕事」をする。もちろん好きでしている人も居るのだろうけれど、生きるために仕方なくって言い方は感じ悪いけどそういう理由で頑張って仕事している人もいる、と思ってる。

私は大学卒業後、主に双極性障害があるから働かずにニートとしてのんびり休暇をとれている。それは私の命のために責任を持ってくれている人、働いてくれている人がいるから私は今こうして生きていけている。

イベントがあればいつだって参加できるし。私はゲームのイベントや好きなアーティストのライブに自由に行ける。

それはラッキーだし、幸せだし、超嬉しい。

でもその裏で、自分の命の責任を周りの支えてくれる人に預けて甘えてしまっている罪悪感が離れていかない。楽しいときは楽しめても、その終わりには罪悪感に負けそうになる。

仕事をすれば罪悪感からきっと解放されるのでは?とか、自分の命をちゃんと自分で生きていけるのでは?と考える。し、実際にそうしようと今 覚悟を決めて就職先を考えている。

と同時に、これからは今のように好きなときに自由に好きなことができなくなるのだと不思議な不安にも襲われている。ストレスだらけになってしまいやしないか、と。

社会で生きるって、どうしてこうも難しいの?

好きなことだけじゃ生きていけない。それはどうしてなんだろう?じゃあ、人間何のために頑張ってるのかな?頑張っていられるのかな?

私は怖い。何かに押し潰されそうなのが。

生きるために働くことをとっても、自分の心のために好きなことをとっても、どっちに進んだって苦しい気持ちから逃げられない。

私はまだ、何も知らないからかもしれない。

けれど、やっぱり怖くて仕方ない。

生まれたから生きている、それだけなのに

なぜこんなにも苦しいんだろう。